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公衆衛生学 / 疫学 / R. 知識をサッと持ち出せると良いよね

Master of Public Healthとは

先日、所属している東京大学の公衆衛生大学院を卒業できることが決まりました。大変ありがたいことに、Master of Public Health (MPH) を名乗ることができるようになります。指導していただいた先生方・一緒にたくさんのことを学んだ学友の皆様、本当にありがとうございました。

今回はMPHとはなにかについて、掲げられているビジョンと自身の感覚の両方から考え、自身の理解を整理できればと思います。

なお、理想とされるMPH像の話で、実際に身につけているかという話ではないです。単に修士課程に通うだけで、全てのスキルを身につけられる人はいないので。少なくとも僕はこの2年を通じて理想像を認識できただけで、スキルがちゃんと身についたとは思いません。

 

 

東京大学SPHが掲げるMPH

東京大学SPHの公式サイトには次のように記載されています。

公共健康医学専攻専門職大学院では、①人間集団の健康を対象にした分析手法を身につけ、②保健医療に係わる社会制度を体系的に理解し、③政策立案・マネジメント能力に優れた、④パブリックヘルス・マインドを持った高度専門職業人の育成をするため、教育課程の編成・実施方針に沿った所定の単位を取得した学生に公共健康医学修士(専門職)の学位を授与する。

www.m.u-tokyo.ac.jp

日本語が長くて理解が少し難しいですね。
専攻の目的に関する自分なりの理解を整理すると次の書き方になります。

 

東大SPHは以下の4つの能力を持った高度専門職業人の育成を目的とします: 

  1. 人間集団の健康を対象にした分析手法を身につけている
  2. 保健医療に関わる社会制度を体系的に理解している
  3. 政策立案・マネジメント能力に優れている
  4. パブリックヘルス・マインドを持っている

 

1-3を丸めると、保健医療関連の社会制度を理解した上で、ステークホルダーに刺さる分析を実行し、政策立案の意思決定に関わるスキルと言えるでしょう。ここは容易です。

では、4つ目に記載があるパブリックヘルス・マインドとはなにか?残念ながら、僕の知る限り、東京大学SPHの公式webサイトには記載がありません。"マインド"で検索するとわかります。専攻の目的であるにも関わらず、一般に定義されていない言葉を使うのはあまりよろしくないですね笑 ちゃんと講義の中では「パブリックヘルス・マインド」について触れるので、在校生・これから進学する方はぜひ吸収してください。

以上、東京大学SPHの理念としては、保健医療関連の社会制度を理解した上で、ステークホルダーに刺さる分析を実行し、政策立案の意思決定に関わるスキルを持ち、"パブリックヘルス・マインド" を持った専門職 という理解でいいのかな?と思います。

 

日本版MPHコンピテンシー

(このMPHコンピテンシーの作成に関わっている先生が東大SPHと関わりが深いだろうと容易に想像がつくことは置いておいて)

もう1つ、とても面白い資料を共有します。2019年に発表された「日本における Master of Public Health (MPH) 取得者が持つべき知識とコンピテンシー」です。冒頭にとても良いことを書いてくれています。

公衆衛生は人々の健康と生活、生命を守るための活動である。大学基準協会では、公衆衛生を「ひとびとの健康と生活の質の維持・向上を目指した、理論と実践を伴う組織的活動」と定義しており、理論の修学と研究の実施のみならず、関連する領域で科学的根拠に基づいた組織での活動を実施し、社会への働きかけ(アドボカシ―)を通じて人々を健康に導くことを使命としている。 

「理論と実践」は東大SPHの専攻概要にも登場しました。やはり重要な概念であることがわかります。

ここでは、MPHが持つべき公衆衛生の知識とコンピテンシーというセクションの内容を書き出します。こうしたビジョンを固めてくれると本当に助かりますね。

MPHが持つべき知識

  1. 疫学 (epidemiology)
  2. 生物統計学 (biostatics)
  3. 環境健康科学 (environmental health sciences)
  4. 社会行動科学 (social and behavioral sciences)
  5. 健康政策管理学 (health services administration)

研究や施策を理解した上で、自身も関わる上での知識ということでしょう。自分が体系的に理解しているか?と考えると、頭が痛いですね...笑

MPHが持つべきコンピテンシー

コンピテンシーとは優れた成果を生み出すことができる個人の能力・行動特性のことですね。MPHホルダーが持つべきコンピテンシー、とても多いです。

  1. プロフェッショナリズム
  2. リーダーシップ
  3. システム思考
  4. 計画策定とマネジメント
  5. 情報科学の素養
  6. コミュニケーション
  7. 多様性の受容と理解・配慮
  8. 国際性
  9. 政策提言・社会実装への貢献(いわゆるアドボカシー)

オーバーラップする要素はあるでしょうが、とても魅力的な能力・特性ばかりです。東大SPHで掲げられていた "パブリックヘルス・マインド" とは、きっとMPHのコンピテンシーを有した上で各分野を尊重するマインドなのでしょう(東大SPHの講義だともっとちゃんと踏み込んだ講義がありますよ)。

 

僕の感じるMPH

ここからは完全に個人の意見です。まず初めに思うことは、一言にMPHのスキルと言っても 学術寄り / 実践寄り で大きく異なるだろうということです。理想的には1人がすべての能力をカバーできると良いですが、現実的には困難でしょう。公衆衛生学にとって学術と実践はスペクトラムであり、どこかで線引きできるものではありませんが、やはりスキルセットは変わってくると感じます。

この前提を置いた上で、学術・実践を問わず公衆衛生は世代を超えた多くの人と関わる分野となります。そこで僕の思うコアコンピテンシーとしては、ステークホルダーに対する透明性の高い説得的なアクションを行うスキルと考えます。盛り盛りコンテンツですね。

分けて考えると次の通りです。

  1. ステークホルダーを意識すること
  2. 透明性の高い根拠を提示する
  3. 説得的な行動を行う

まずは相手を意識することです。どんな人間と仕事をするのかを意識した上で発信しなくてはいけません。相手に合わせて話をしなくちゃいけないし、相手から嫌われてはいけない状況であれば、プロフェッショナリズムに反しない範囲で自分の価値観を抑えなくてはいけない場面もあるかもしれません。また、ステークホルダーと言っても、様々なレイヤーがあるでしょう。直接的なステークホルダーもあれば、時間的に距離のある将来影響を受けうる人(例えば政策なら、制度が影響する国民など)もあるでしょう。相手を意識することは学術/実践を問わず重要だと思います。

2点目に透明性の高い根拠を提示することです。これが大変厄介です。相手に合わせたレベルで根拠を提示しなくてはなりませんが、明らかに誤った根拠は提示してはいけません。学術向けなら研究者にとってわかりやすい根拠を、実践なら実践者と影響を受ける人にとってわかりやすい根拠を出すべきです。言い換えれば、根拠と一言に言っても様々なレベル感があり、相手に合わせて使い分けなくてはならないということです(めんどくせ〜)。例えば論文レベルの分析をしても、それをステークホルダーに理解していただくことができないなら、「透明性の高い根拠」にはなり得ないということですね。一方、相手に合わせて簡便な分析を提示するものの限界に触れず、拙速な議論を促すことも不適切でしょう。こうした学術的適切さと理解の容易さはある程度トレードオフなので、ステークホルダー全員(しかも現在と将来の利害関係者!)が満足する根拠を提示することは不可能です。しかしながら、自分にできる範囲で、学術レベルの内容を初めて聞く人にもわかる言葉・ストーリーで話すことが求められています。公衆衛生はステークホルダーが多いと言いますが、ここで効いてくるんですよね〜(痛い目にあったことがある)。

3つ目には、説得的な行動です。人を動かしましょう、ということです。これは単にプレゼンスキルに留まりません。相手を動かせば勝ちなので、時にはペコペコ頭を下げることも大事です。メインの仕事ではない嫌な仕事でも引き受けて、サッとアウトプットを出すことで、「あいつ有能だなあ」みたいなポジションを作ることも大事でしょう。頭の中でキレながらも、ニコニコと頷くスキルも大事だなあと思います。嫌な世界だ。

 

こうやってまとめてみると、僕は随分人の顔を伺って仕事してるんだなと嫌な気持ちになります。でも公衆衛生ってそういうものだし、何なら世の中のお仕事だいたいそうじゃない?と思います。僕はデータ分析が好きなので、話の終わりにデータサイエンティストの方のお話を引用してみましょう。こんな意見があります。

 

「実務者としてのデータサイエンティスト」になるということ - 渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ

 

裏を返せば「Excelで集計すれば済むような仕事『しかない』ところにデータサイエンスを持っていっても何の役にも立たない」わけです。

今の公衆衛生の実践の場では、“Excelで集計すれば済むような仕事”ばかりなような気もします。そして、そんな場にExcelでの集計より複雑な根拠を持ち込むと、拒否反応が起こりやすい環境でもあるのが公衆衛生です。ステークホルダーがあまりに広範囲に渡るので、複雑な分析はやはり嫌われやすいのでは?と感じます。tjoさんの言う通り、Excelでの集計こそが求められる環境では、MPHを持っていっても本当に何の役にも立たないのかもなあと考えたことがあります。なんなら、多分自分は役に立たなかったなと思ったさえあります。

そんな“Excelでの集計が求められている環境”にMPHが入って役に立つには、人間関係を構築し、エビデンスを提示する土壌を作った上で、最後に魅力的な根拠の提示とビジョンの共有をすることが必要でしょう。そういう意味で、ステークホルダーに対する透明性の高い説得的なアクションを行うスキルって大事だなあと。

 

昔々は数字に基づいて施策を決めること自体が難しいことでした。今では、数字を持ち出すことが普通になった。この先、公衆衛生の場で数字の質を議論できる社会を作るためには、MPHが旗を振り続ける必要があるはずです。今と未来のステークホルダーにとって腑に落ちる発信を行うことが僕にとって理想のMPHスキルかなと思います。

 

まあ色々話してるけど、理想と現実は全然違うし、僕は公衆衛生系から一旦離れるって話が最後のオチで。